4.専攻分野(聖書神学/新約聖書学)について(1)
LMJジャパン アソシエイト 永芳 稔
神学(キリスト教神学)は大きく分けて『組織神学』『歴史神学』『聖書神学』の3分野に別れています。
『経典の民』という言葉があります。一般的には『ユダヤ教』『キリスト教』『イスラム教』の信者をさします。『経典』とは所謂『旧約聖書』(現在、学問の世界では『旧約聖書』という言葉は使いません。『ヘブライ語聖書』と云われています。その理由は『旧約聖書』という言葉は『キリスト教』の立場からユダヤ教を貶める意味で使われたという反省に立つからです。)の事です。それに対して『新約聖書』と云われているのは、キリスト教が作り出した『聖書』なのです。
古代から中世にかけて、『聖書』は神の言葉であるとされ、その内容に対する批判は一切許されなかったという事はご存知でしょう。しかし、考えて頂きたいのです。『神』書いた書物が『天』から降ってきたのでしょうか?そんなことはあり得ないでしょう。『聖書』の『原本』 などという物はどこにも存在しないのです。残っているのは断片的な『写本』(羊皮紙やパピルスに書かれた)のみです。所謂『新約聖書』『旧約聖書』ともに、この本に感動し、その伝承を伝えようとしたおそらく何万もの人々が繰り返し、繰り返し、写し取って伝えてきたものでしょう。ですから、その内容に「写し間違い」や「誤解」「矛盾」が在って当然でしょう。
時々、アメリカの「キリスト教原理主義者」のことが面白可笑しく報道されることがあります。これらの人々、いや、熱心にキリスト教を信じている日本人の多くの人々が『聖書無謬説』(聖書には一切間違いが無いと云う説)『逐語霊感説』(聖書の言葉は一つ一つ神の霊感に導かれて書かれたという説)を信じているのです。オーム真理教などが記憶にあるかと思いますが、過度に信仰しすぎるのも極めて危険といえるでしょう。つまり、『聖書』という書物は学問の対象にするのは極めて難しい、また、ある意味危険な書物であると思います。しかし、このような「狂信的原理主義者」の方々は、実はあまり聖書を読んでいないという事も事実なのです。
ただ、面白い事を教えましょう。実はこの『十戒』聖書の中で2カ所出てくるのです。「出エジプト記20章1~17節」と「申命記5章7~21節」です。当然ながら内容は殆ど同じなのですが、表現のニュアンスが微妙に違います。また所謂『旧約聖書』の冒頭にある『天地創造物語』も実は二つあるのです。「創世記1章1~2章3節」と「創世記2章4~25節」です。特に人間の男女の作り方が全く違います。
実はそれくらい熱心な(狂信的とは云いませんが)キリスト教関係者からの拒絶感がおおきかったのです。この本、出版から100年以上たって、最近では.特にユダヤ教学者からは多くの批判が寄せられている事も事実ですが、聖書学を学ぶ人にとって必読の書物とされています。
さて、私が聖書学に本格的な興味を持ち出したのは1970年頃でした。その頃出版された『沈黙の世界史』という考古学のシリーズ本の第一巻に面白い話が載っていました。旧約聖書の中で、最も有名な話の一つに神が大洪水を起こして人類を滅ぼす話「ノアの洪水」があります。この本によれば、この洪水伝説と全く同じ話がメソポタミアで起源前1800年頃に作られたと思われる「粘土版」に残されているというのです。これが有名な『ギルがメッシュ叙事詩』の一部分である事はすぐにわかりました。それ以来、聖書特に『旧約聖書』の矛盾点、歴史上の事実との関係を調べて行く面白さに捉えられてしまったわけです。
この事がマネジメント・システム審査技術と、いや、業務をする上での「基本的技能」つまり、文書や記録を精査して、その裏に潜む問題点を探り出す技能と関係するという事は、皆様よくお分かりになっている事だと思います。
次回は『新約聖書学』の歴史と現状について考えてみたいと思っております。